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きつねとぶどう(ら・ふぉんてーぬぐうわ) 狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)
日本版画倶楽部を結成するなど創作版画運動を推し進めていた長谷川は1918年単身渡仏、以後、死ぬまで一度も帰国することなく制作に打ち込み、フランスで巨匠としての地位を築いた。彼の最大の業績は、長く忘れられていたマニエール・ノワール(メゾチント)という銅版画の技法を復活させ、そこに現代の生きたいのちを吹きこんだことである。〈狐と葡萄〉もマニエール・ノワールによって制作されている。ラ・フォンテーヌの寓話集からヒントを得た葡萄とおもちゃの狐が、この技法独特のち密な表現と厳密な画面構成によって、古典的な品格を醸し出しながら描かれている。彼の作品には、洗練されたフランス的感性とともに、微妙な白黒の階調に東洋画に通じる要素を見いだせるが、古い技法を自己のものにしようとする長い誠実な探究によって、西欧とも東洋とも言いがたい独自の作風を生み出した。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年10月11日掲載)
カテゴリー:作品
五姓田義松とは?【 作家名 】 1855年東京都に生まれる。チャールズ・ワーグマンに入門。1874年横浜から東京に移り、家塾を開く。1876年工部美術学校に入学し、フォンタネージの指導を受ける。翌年工部美術学校退学。同年の第1回内国勧業博覧会に出品し鳳紋賞を受ける。1880年渡仏。フランスでレオン・ボナに師事する。1882年パリのサロンに入選。翌年にも再び入選する。1887年ロンドンに移り、その後アメリカに渡る。1889年帰国し、明治美術会の結成に参加。1890年父芳柳と共にアメリカへ行く。同年帰国。また、この年の明治美術会第2回展に出品。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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