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さまーしゃわーしょう Summer Shower Show
現在の若者の気質の一端は、深刻ぶらない軽さにあるようだ。おしゃれとかここちよなどがさ価値観のすべてであるといわれる。山本はそのような若者の文化を反映した作家だといえるだろう。まだ三十歳代だが、しゃれた筆致とユーモラスなイメージで今最も注目を受けている作家の一人である。画面の中央には夏の海辺でシャワーを浴びる男が、手前には車が描かれている。夏の遊びと車、いずれも享楽的ともいえる若者の関心事である。それらのものが画面の上で繰り返され、軽妙なリズム感を生んでいる。もしこの作品を常識的な視点から見ると、ひどく表面的でナンセンスな印象を受けるかもしれない。しかし山本は、日常の光景から鮮やかなものを発見し、イメージを展開しているのだろう。アカデミックな理論や約束事から離れ、身近なものを思い出しながら、親しい友人と気軽なおしゃべりを楽しんでいるかのようだ。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年01月24日掲載)
カテゴリー:作品
ラスケとは?【 作家名 】 1892年から1898年、ウィーン工科大学でカール・キューニッヒに師事。1897年、イタリアに研究旅行。1899年から1901年、ウィーン美術アカデミーでオットー・ヴァーグナーに師事。建築ディレクター、ヘルマン・ミュラーのもとで実践を積む。最初は父親のアトリエで、後に独立して、賃貸住宅やウィーンの邸宅、とりわけ、ケルンテン、ドレスデン、メーレンのエンゲル薬局、などの建築に従事。キャバレー「ナッハトリヒト(常夜灯)」の内装と装飾。1904年、はじめてエッチングを試みる。1905年、ユングブント展に造形作家として参加、その際、室内デザインにも従事する。1907年、ハーゲンブントのメンバーになる。多くの展覧会設備のデザインを請負う。1910年、「ノアの箱舟」、1913年、「パラダイス」、「小鳥のお説教」。1911年から1918年、頻繁に旅行をする。第一次世界大戦の際には、戦争画家として様々な戦線に赴く。1919年、「ノアの箱舟」のフリーズ(壁面上部の帯状装飾)、エッチング「ファースト・インプレッション」。1920年、初めて劇場の演出を試みる。1924年、ウィーン分離派メンバー。1928年、ウィーン紙大賞を受賞。キュンストラーハウスのメンバーとなる。ウィーン市から1931年、1948年に受賞。トーマス・マン、ヨハン・ネポムック・ネストロイ、フェルディナンド・ライムンド、アルトゥール・シュニッツラーらの作品のリトグラフと本の挿絵を制作。 |
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