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なまけもの なまけもの
現代美術の第一線で活躍している泉茂は今日、幾何学的な形態の作品を描いている。具象性を排した抽象的画面から、「光・風・水といった自然を感じさせるメッセージ」が伝えられ、多くのファンを魅了している。しかし、彼の画業には、このような版画を制作の中心にした時期があった。戦後の前衛的な美術運動であるデモクラート美術協会で活動したのが、その時期である。版画の分野でも大きな業績を残したこのグループは、池田満寿夫など重要な版画家を輩出しているが、泉はそのなかでも代表的作家と言える。これは、ベンチに座る女性を写実的に描いたもののようだが、よく見ると、人の足とベンチの足が同一であるなど、不思議な要素が隠された作品である。具象的な形と空想的なイメージが混在し、ユーモラスだが、底知れない幻想感のただようこの期の版画の魅力が見てとれる。ここには、常に新たな表現を追求している泉の初期の姿がある。(森芳功「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年05月17日掲載)
カテゴリー:作品
幸野楳嶺とは?【 作家名 】 京都に生まれる。名は直豊、字は思順、幼名角三郎。旧姓は安田。父の実家の姓を名のる。はじめ円山派の中島来章に師事するが、明治4年(1871)師の許しを得て、四条派の塩川文麟につく。明治10年(1877)文麟の没後は、四条派を率いた。京都府画学校設立の建議書を知事に提出。明治13年(1880)の同校創立に際して、北宗科出仕となるが、翌年退職し私塾を開く。第一回内国絵画共進会で褒状を、第二回展で銀章を得たのをはじめ、パリ万国博覧会やシカゴ万国博覧会などに出品。また、京都青年絵画研究会、京都美術協会の設立に尽力。京都府画学校の校制改革で再就任し、同校教授、教頭となつた。明治26年(1893)帝室技芸員。菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香、谷口香●(こうきょう)、上村松園などを育てた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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