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そよぐひとたち そよぐ人達
小作の描く画面には人間ばなれした異形の生きものがうごめいている。この作品も黄泉の国を思わせるような積み重なりの中から、いくつもの生きものが立ちのぼり、風にそよいでいる。日常生活では決して目にすることのない幻想の世界である。リトグラフを始めたばかりのころを、小作は次のように語っている。「何をどう描いて良いのか戸惑ってしまいました。その当然の結果として、知っている事だけでは間に合わず、空白を、想像や見たてで埋めることを強制されました。この想像し、でっち上げる事で絵の世界を創(つく)り出す面白さを知ったことが、私の版画の出発点であったと考えます」小作は手を動かすことであいまいなイメージを形にしているのだろう。「想像し、でっち上げる」と、はぐらかしているが、描かれたのは目に見える「知っている」世界でなく、意識下の世界だけに、より人間の本質的な存在を明らかにしていると言えよう。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年06月14日掲載)
カテゴリー:作品
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
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