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ぺんしる2ー 1 Pencil 2-1
木村秀樹は1948年京都府に生まれ、京都市立芸術大学を修了した1974年に第九回東京国際版画ビエンナーレで京都国立近代美術館賞を受賞しました。この作品は、その受賞作と同じく<ペンシル>シリーズの中の一点であり、初期の代表作といえるものです。鉛筆を持った手の図像が、写真製版を用いて、ごく普通の方眼紙に印刷されています。方眼紙に鉛筆とくれば、一体どんな線が引かれるのか想像してみたくもなりますが、作品に向かっていると、作者の意図はもう少し別のところにあるようにも思えてきます。なぜなら二つの手はただ鉛筆を持って見せているだけで、何も描こうとはしていないからです。そこには、作品の存在自体を問い掛けようとする観念的な思考をみてとることができます。しかしその一方で、見る者の視線をさまよわせるような、つかみどころのない透明感があって、作者の繊細な感性が表されているのです。(竹内利夫「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年07月18日掲載)
カテゴリー:作品
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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