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あかいやみ6 赤い闇6
黒崎彰は、中学に入ると間もなく新制作研究所に入ったが、ここではサロン・ド・メ風の瀟洒なモダニスムが奨励され、少しでも暗い色を使うと叱られたのだという。大学は京都工芸繊維大学のデザイン科に進むが、大学では制約の多いデザインの仕事に幻滅を感じたらしい。描けば描くほど自作が暗く、陰鬱な画面となっていくのに気づき、それが自分の本当の資質であることをさとったという。「赤い闇」は、黒崎が国の内外で広く知られるきっかけとなった、九点の連作である。この連作によってクラコウ国際版画ビエンナーレで受賞し、ワルシャワ美術館の買い上げ賞も受けた。深い赤と黒を対比させ、その間に階段や箱など色とりどりの形態を暗示的に配置し、曲線と直線の交錯する濃密な空間をつくり出している。あたかもおどろおどろしい情念と死が隣り合わせになった、人間の心の奥底の不条理な世界を描き出しているかのようだ。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年10月24日掲載)
カテゴリー:作品
菱田春草とは?【 作家名 】 筑摩県飯田郡(現在の長野県)に生まれる。本名は三男治。上京し、結城正明に学んだ後、東京美術学校に進み、橋本雅邦、川端玉章に師事する。卒業後、日本絵画協会絵画共進会で受賞を重ねるとともに、母校の絵画科嘱託として予備過程の授業を担当したが、明治31年(1898)天心に殉じて美術学校を辞職。日本美術院の創立に参加し正員となった。明治33年(1900)、絵画協会と美術院の連合絵画共進会に出品した作品が、「朦朧体」との酷評を受ける。大観とともにインドや欧米へ旅行し、帰国後は天心に従って茨城県五浦で研究を続けた。明治40年(1907)文展開催にともなって、新派の国画玉成会が結成されると評議員となり、文展で受賞を重ね審査員もつとめたが、眼病をわずらい失明の後38歳で亡くなった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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