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げきじょう 劇場
難波田龍起の二男である。1974年瀬戸内海上のフェリーから夜の海に転落し、32歳の若さでこの世を去った。誤って落ちたといわれるが、彼が残したノートには将来を暗示するかのように「海をみつめていると、海で死んだ人達を思い、自分も海で死ぬことへの憧憬をおぼえる」と記していた。「劇場」は制作に没頭しはじめた21歳の時の作品である。友人や家族の証言によると、彼はこの作品のような繊細な心の持ち主だったらしい。その後早稲田大学に入学したが、そこでは学園紛争に巻き込まれてひどく傷つき、卒業までに中退と復学を経験している。心に浮かんだ小さな形をあくことなく繰り返し紙の上に描いてゆく、そのように孤独な作業を通じて、彼は自分の存在をじっと見つめていたのだろう。若者の純粋な心に触れることができるような美しい画面である。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年03月08日掲載)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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