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とらんぷうらないのおんな トランプ占いの女
藤田嗣治の名前からまず思い浮ぶのは、乳白色のなめらかな絵膚と線描を駆使した独特の画風だろう。1913年フランスに渡った藤田は、苦しい研鑽(けんさん)のつみ重ねの中からこの画風をつくり出し、ピカソやモジリアーニらと共にエコール・ド・パリを代表する作家の一人として脚光を浴びた。日本人としては世界的な作家と目される数少ない一人である。「トランプ占いの女」は藤田がフランスに渡った翌年の作品である。様々の作風を試み、自分のスタイルを探し求めていた頃の制作で、藤田らしさはまだ現れていない。一見しただけではキュビスム(立体主義)のようでもあるが、手の描写のように動きの過程を一枚の画面に描いた表現は、イタリアで興り、その頃パリでも盛んだった未来派を意識したものだろう。初期の藤田の作例として興味深い作品であり、日本人画家の未来派の試みの一つとしても貴重な資料だと言える。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年11月08日掲載)
カテゴリー:作品
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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