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おんなのかお 女の顔
実直な線で、画面いっぱいに女の人を描く。激しい陰影が全体をひきしめ、思いつめたような緊張感がひしひしと伝わってくる。多感な少年時代を大正期の文芸と美術に捧げた、夭折の詩人画家18才の作品。従兄の山本鼎に影響され学友と雑誌を刊行し、詩や絵画の制作にあけくれ、ボードレールやランボーを耽読する、そんな京都での中学時代を終え、上京したのがこの年である。若々しい表現力にも、何ともいえない哀愁がつきまとう。(「コレクションによる特別展示 人間像のゆくえ」展図録、1995年)
カテゴリー:作品
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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