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「ライバッハ(リュブリャナ)のために」



ライヒレ



ライ麦おばさん



ライング



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ラウシェンバーグ



ラウルドゥケイザー



ラヴォ



羅漢 一



楽此幽居図



ラグーザ



羅針盤



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裸体像の習作



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ラパン・アジル



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しょそう 1かん1,2,4ごう 2かん2,6ごう 3かん1ごう 4かん2,5ごう 5かん1,4ごう

書窓 1巻1,2,4号、2巻2,6号、3巻1号、4巻2,5号、5巻1,4号

作家名:恩地孝四郎
制作年:1935-38年刊
技 法:雑誌
恩地孝四郎編。恩地孝四郎は、創作版画運動のリーダーであり、一九二〇年代から三〇年代にかけての海外のアヴァンギャルド運動に敏感に反応した先駆者である。大正期に竹久夢二を通じて装本の世界に足を踏み入れ、一九二三年に夢二が設立した「どんたく図案社」の同人となった。版画家として活動する一方で、装丁家としても人気を集め、ドイツ表現主義やロシア構成主義の影響を受けて、色や形による簡潔な構成を行いながら、動きのある図案を生み出していく。また、フォトモンタージュにも関心を持ち、写真も積極的に導入している。日本でも「マヴォ」(一九二三−二五年)などのアヴァンギャルド運動が盛んな時代であった。そんな時代背景を通過し発刊されたのが、一九三五年創刊の雑誌「書窓」である。そこで恩地は終始一貫して編集を行い、自らの装本美学を展開し発信した。それは、図案、製本、紙などの本の構成要素をどん欲に研究した成果を発表し、愛書狂からモダン・デザインに関心のある層まで、様々なニーズに対応した本に関する総合雑誌であった。彼と時期を並行して活動した北園克衛や村山知義を含めた日本のアヴァンギャルド時代の本と美術を考えるとき、恩地の活動は、海外のそれをトータルに受容し、紹介し、洗練した形で実践することで、とりわけ広い裾野を持ち得たと言えるのではないだろうか。戦後になると、日本の装丁、装本の世界においては、かつてのような画家や版画家と本との蜜月時代は終わりを告げている。一九五二年に刊行された『本の美術』(誠文堂新光社)のなかで、恩地は「本は文明の旗だ」と高らかに宣言し、それを自ら「おっちょこちょい」と形容したが、確かにそれは、戦後になって、なおもアヴァンギャルドのユートピアを志向する老兵の自虐的な響きが含まれていたのかも知れない。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)


カテゴリー:作品
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村山知義とは?【 作家名 】

1901年東京都に生まれる。1921年第一高等学校を卒業して東京帝国大学哲学科に入学。同年ベルリンに留学するが、同地で画家に転じる。1923年帰国後「意識的構成主義」を主張し、柳瀬正夢、尾形亀之助らと「マヴォ」を結成、はなばなしい活動を開始した。翌年三科造形美術協会結成に参加。1924年、築地小劇場でカイザー作『朝から夜中まで』の舞台装置を担当して注目され、演劇の道に進む一方、日本プロレタリア文芸連盟、日本プロレタリア美術家同盟に所属し、機関誌などの表紙のポスターを描く。1959年薄田研二の中央芸術劇場と合同して東京芸術座を創立し、劇団演出家となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年)

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