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版画集〈響き〉52.大いなる復活



版画集〈流砂〉I 仕事をする彫刻家



版画集〈流砂〉III 鏡の前の二人の女



版画集〈7点組木版画集 戦争〉7. 民衆



斑点のある山椒魚



ハンモック(10−12歳用)



ハートリー



ハーベイ



ハーマンヘイズ



ハーム



バイヤー



バイルレ



バイロス



バウアー



バウハウス



バウハウスヴァイマール



バウハウス 第1巻1-4号



バウハウス 第2巻1号、2/3合併号、4号



バウハウス叢書 全14巻



バウマイスター


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しがしゅうありのいるかお

詩畫集 蟻のいる顔

作家名:駒井哲郎
制作年:1973年刊
技 法:アクアチント 紙(5点)、テキスト
丸山薫著、杉浦康平装本。戦後の日本における銅版画の先駆者、駒井哲郎。十代のころから銅版画を始め、戦後、恩地孝四郎の一木会に入会して頭角を現し、一九五〇年の春陽会展では大きく脚光を浴びた。駒井が挿絵を担当して、五二年に刊行された『マルドロオルの唄』は、彼がその出発点から本と深い関係を持つ運命であったことを暗示する、記念すべき書物である。東京美術学校在学中からフランス語の勉強もしていたほど文学にも興味のあった駒井にとって、『マルドロオルの唄』の仕事は格別な思い入れを込めたものであった。訳文だけでなく、原典にもあたるほどのめり込み、自らの不勉強を嘆きながらの制作は、五一年、その年の初めに新たに入手した大きなプレス機で六月頃から始めた。当初十二点の予定だった挿絵は出版元の事情で五点(表紙を含め六点)となる。三百五十部限定で六点、計二千百枚の刷りを一人でやり終えるまでに約半年かかったという。その後も駒井は、安東次男や埴谷雄高と組んだ挿絵本を手がけ、また、書籍や雑誌に数多くの挿絵を寄せた。安東次男との詩画集『からんどりえ』を出版した翌年の一九六一年、駒井は「未だ見果てぬ本の夢」と題した小文を発表している(「本の手帖」一九六一年四月号 昭森社)。そもそも銅版画を始めたきっかけが、中学生の頃に限定版の本を出したいと思ったことであった、と述べる駒井。その見果てぬ夢にとって五十六歳の生涯は、はたして長かったのか、短かったのか。『蟻のいる顔』は、病が発覚する前年の一九七三年の刊行。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)


カテゴリー:作品
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ミロとは?【 作家名 】

1893年スペインに生まれる。1983年没する。1912−15年フランセスク・ダ・ガリ・ファブラに学ぶ。特に、目を閉じて対象に触れてデッサンをすることを学ぶ。1918年ダルマウ画廊で初の個展を開催。1920年パリへ最初の旅行を行う。1924年アンドレ・ブルトンらと知り合い、シュルレアリスム運動に参加。1925年「シュルレアリスムの絵画」展(ピエール画廊)に出品。1929年ピラール・ジュンコサと結婚。1930年ピエール画廊で個展、また、ニューヨークのヴァランタイン画廊でアメリカで初の個展を開催。1932年バルセロナに居を定める。同年、ニューヨークのピエール・マティス画廊で初の個展を開催。1936年スペイン内乱勃発のためパリに留まる。1937年パリ万博スペイン館のために〈刈り入れ人〉を制作。1940年マヨルカ島パルマに移る。1941年〈星座〉の連作を完成。1944年最初のブロンズ彫刻を制作。1970年大阪万博のための壁画を制作。1976年ミロ財団が公式に開館。パルマ・デ・マヨリカで死去。

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