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かわかみ さきょう 河上左京
1889年山口県に生まれる。1905年岩国中学を中退して京都の関西美術院に入学。後に上京して太平洋画会研究所に学び、翌年日本水彩画会研究所の第1期生となる。1913年日本水彩画会の創立発起人となり、第1回展に出品する。1919年第6回二科展で初入選。翌年第8回光風会展に初入選、今村奨励賞を受ける。1921年光風会会員、審査員となる。1923年望月省三、後藤工志、古賀春江らと「■会」を結成。日本美術展で最優秀賞を受ける。1926年二科会会員となる。1928年日本水彩画会を退会。この頃から中央の画壇を離れる。1933年岩国に帰り、1946年日本美術会会員となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年)
カテゴリー:作家
キルヒナーとは?【 作家名 】 ウィーンでエレガントな有閑マダムや高級娼婦を描く絵描きとして出発、その後、1900年頃にパリへ移住、肖像画家として活動するほか、雑誌(特に「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」)や単行本の挿絵を描いた。一時ロンドンにも滞在し、そこで「ザ・スケッチ」の挿画を描いていた。世界大戦勃発後、彼はニューヨークへ行き、主に女性を描く肖像画家として活動した。キルヒナーが知られているのは、サロン、バー、ナイトカフェなどにたむろして、一種エロティックな仕草をしたがる刺激的な女性たちの絵描きとしてであり(「玩具」、「サルタンの妃」、「青春」、「引っ張られるアモール」)、また、‘キルヒナー・ガール’の呼び名でポピュラーになったモンマルトルのやくざ女の代弁者としてである。1904年、彼はミュンヒェン水晶宮の展覧会に「ウェスタの処女」を出品した。フランス美術協会のパリ展には、1906年、婦人肖像画、1913年、「釈放」、1914年、「御託宣」を出品した。また、パリのユーモリスト展にも多数の水彩画を出品した。彼の水彩画のカラー複製は、特にマックス・ヘルツベルク書店(ウィーン)から出版されている。 |
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