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どら・まーるのしょうぞう ドラ・マールの肖像
ピカソはスペインに生まれ、幼い時から父親に絵の手ほどきを受けた。父親から教わった絵は古典的な写実画だったが、1902年にパリに移住してからは「青の時代」「サーカスの時代」「キュービズム」「新古典主義」そして「幻想の時代」へと、次々に作風を変化させ、20世紀の画家に多くの影響を与えた。また絵画だけでなく彫刻、陶器、版画と旺(おう)盛な制作意欲と独創性を見せ、今世紀最大の芸術家と言われる。この作品は、ピカソの最高傑作とされる「ゲルニカ」の制作過程を写真に撮って残し、後世のピカソ研究に大きな貢献をした恋人、ドラ・マールを描いたものである。いくつかの視点から見た形を一つの画面にとり入れるキュービズムの技法が用いられていて、実際の姿とはかけ離れている。しかし、画面からはそう明でおだやかな彼女の人柄さえ感じ取れる。モデルの本質をとらえることに成功した優れた肖像画の一点だろう。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年05月10日掲載)
カテゴリー:作品
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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