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ひにくなゆうじょう 皮肉な友情
空中に浮かぶのは二人の人物、いや、二匹の化け物かもしれない。手足の長い、奇妙なこれらの生き物は、漂うのでもなく、疾走するのでもない。「皮肉な友情」という題を考えれば、片手を挙げてグッド・バイとでも言っているのだろうか。一見ユーモラスにも見える姿だが、そこには無意識をさぐるマッタの、鋭くさめた感性が現れている。チリのサンティアゴに生まれたマッタは、はじめパリのル・コルビジェのもとで建築を学んだ。しかし、まもなく画家に転向し、1935年からシュルレアリスム運動に参加する。時は折しも第二次世界大戦前夜である。多くのシュルレアリストたちと共に、マッタもアメリカに亡命した。1940年代のマッタの作品は、宇宙のはじまりを思わせるような、空想的で、しかも力強いものである。画面全体に描かれたそれらの作品はポロックらに影響を与え、戦後のアメリカの抽象表現主義に果たした役割も大きい。(友井伸一「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年09月21日掲載)
カテゴリー:作品
森田恒友とは?【 作家名 】 1881年埼玉県に生まれる。上京して小山正太郎の不同舎に入門。東京美術学校西洋画科にすすみ、卒業後進学していた研究科を1907年(明治40)やめ、石井柏亭、山本鼎らと同人雑誌「方才」を創刊する。また詩人北原白秋らとパンの会を起こす。同年開設された文展に入選。その後一時、秋田や大阪で教員や新聞社に就職するが再上京し、1914年(大正3)渡欧する。帰国後は、セザンヌやドーミエ、またキュビスムに影響された作品を発表する。翌年、二科会の会員になる一方、院展洋画部に出品し、翌年同人に推挙される。また同年、小川芋銭、川端龍子、小川千甕らとともに日本画家の団体珊瑚会を結成。しだいに水墨画家の活動もはじめる。1917年、院展に専念するため二科会を退会。1920年には院展同人とともに日本美術院を脱退、1922年春陽会を結成し、以後ここを中心に活動する。1932年(昭和7)食道癌のため入院し、翌年逝去。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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