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したぎのらふ 下着の裸婦
20世紀の初め、パリには世界中から若い美術家が集まり、酒と芸術に明け暮れながら貧しく、悲惨な生活を送っていた。パスキンはシャガール、モディリアーニ、藤田嗣治らとともに、エコール・ド・パリと呼ばれる芸術家たちを代表する一人である。若くからドイツやフランス、アメリカ、イタリアなど世界各地を放浪し、パリで自殺するまで生涯を旅に送ったが、1920年代はパリのモンマルトルを足場にして、哀愁とデカダンの香りに満ちた女性像を制作している。「下着の裸婦」はその頃(ころ)の作風がよく表れた一点である。夜の歓楽街では、きわめて派手に振る舞ったが、アトリエでは無口で人をよせつけなかったという。孤独なだけに夜は快活に振る舞っていたのだろうか。柔和な線とおだやかな色調で描かれたこのかれんな作品も、どこか虚無的で孤独な雰囲気を漂わせている。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年06月21日掲載)
カテゴリー:作品
平福百穂とは?【 作家名 】 1877年秋田県に生まれる。本名貞蔵。四条派の画家である父の平福穂庵から手ほどきを受けた後、1894年(明治27)に上京して、川端玉章に師事する。1897年東京美術学校日本画科に編入学する。1900年、玉章門下の結城素明らと无声会を結成。1913年(大正2)の无声会解散後は、同年に国民美術協会の創立に加ったほか、1915年に川端龍子、小川芋銭らと珊瑚会を結成する。一方文展にも出品し、1914年の第8回展で3等賞を受賞、第9回展で褒状を受け、第11回展では特選となる。1916年には、松岡映丘、結城素明、鏑木清方、吉川霊華らと金鈴者を結成し、翌年の第1回展から1922年の解散時まで出品する。1922年の第4回帝展、1926年の第7回帝展では審査員をつとめ、1930年(昭和5)に帝国美術院会員、1932年には東京美術学校教授となった。大和絵、南画、琳派や桃山時代の絵画、中国古代美術などを広く学ぶとともに、歴史故実も研究し、多彩な画風を展開した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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