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あんたいとるど 無題
長くとかした髪、カジュアルだが控え目な服装。彼女もまた、どこにでもいそうなオフィス・レディであり、同じように衝撃を受けている。男性像と見比べてみると、ロンゴが男らしさも女らしさも画面から排除しているのだとよく分かる。男はさておき、女がこのように描かれたことは(少なくとも男の作家によって)美術史上そうなかったことなのだ。男性像とともに〈メン・イン・ザ・シティーズ〉と呼ばれるシリーズの1点。(「コレクションによる特別展示 人間像のゆくえ」展図録、1995年)
カテゴリー:作品
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
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