![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
こどくなしじん 孤独な詩人
イタリアの画家、キリコは、非現実的な物の奇妙な配置によって夢を現実化する、神秘的で瞑想的な作風で知られる。彼は、1917年パリで形而上学絵画派を提出した。またシュールレアリスムの先駆者の一人としての評価も高い。この作品は、彼の絵画にもよく現れる、マネキンのような人体を表したブロンズ像である。やや左に体をねじり、少し首を傾けて腰かける詩人の体は、各部分を互いにはめ込んだり、ネジや波形のハンドルで結合したりすることによってできているように見える。それは、キリコが自らの感情を切り崩し、それらを再びつなぎ合わせることによって生まれたのである。造形のこの危うい均衡は、その回りの音を遮断し、更にそれを見る者の感情までも切断してしまうだろう。しかし、それと同時に、キリコ晩年のこの作品は一種の落ち着きを示している。また渦巻模様や浅く腰かけた姿勢も愛らしい。(友井伸一「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年06月07日掲載)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||