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じょせいりゅうぞう 女性立像
エコール・ド・パリの中心人物。純粋造形と抒情的表現主義のバランスの上にザツキンの造形はある。黒人彫刻やキュビスムの影響を受け、半造形の凹面など、反転効果を持った凹面など、凹面に特徴を持った新たな造形空間を創造。左右交互に凹面と凸面を対照させる構成は、複合的な面の層のなかに、キュビスムの原理を用いてより優美な表現を生み出そうとしている。(「コレクションによる特別展示 人間像のゆくえ」展図録、1995年)
カテゴリー:作品
浅井忠とは?【 作家名 】 東京都に生まれる。1863年父の死去のため家督を相続し佐倉に帰郷。翌年佐倉藩の絵氏黒沼槐山に花鳥画を学ぶ。1873年上京し、箕作塾で英学を学び、1876年国沢新九郎の彰技堂に入門。初めて西洋画の初歩を学び、工部美術学校に入学してフォンタージに師事する。1878年フォンタネージの帰国後、後任のフェレッティを不満として美術学校を退学。1899年明治美術界を創立。1898年東京美術学校教授となる。1900年渡仏し、パリ近郊のグレーなどに滞在。1902年パリを立ち、イタリア、ドイツ、イギリスを巡歴して帰国。東京美術学校を辞し、京都工芸学校教授に就任して京都に移る。1903年自宅に聖護院洋画研究所を創設。1906年関西美術院を開設し、初代院長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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