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あかいしゃつの3にん 赤いシャツの3人
人体を型どった版画 人体の部分は、ソフトグラウンド・エッチングという腐蝕銅版画の技法で製版されています。どうやったのか、想像してみてください。 彼の発案はこうです。服を着た人間の身体中に脂を塗ります(犠牲になったのは版画工房のスタッフ)。金属板には柔らかい防蝕剤が塗ってあり、それが服の脂ではがされる、という方法です。はがれた部分は腐蝕され、銅版画の版ができあがるのです。 この方法により、「型どり」というシーガル独特の制作方法が版画にも生かされました。押しつけ具合によって人物像は歪み面白い効果をあげています。そればかりか、基本的に真っ白な人体像ばかり作ってきたシーガルは、鮮やかな色彩を手に入れ、神秘的ともいえる深みのある美しい「現実」を表現することができたのです。
カテゴリー:作品
菱田春草とは?【 作家名 】 筑摩県飯田郡(現在の長野県)に生まれる。本名は三男治。上京し、結城正明に学んだ後、東京美術学校に進み、橋本雅邦、川端玉章に師事する。卒業後、日本絵画協会絵画共進会で受賞を重ねるとともに、母校の絵画科嘱託として予備過程の授業を担当したが、明治31年(1898)天心に殉じて美術学校を辞職。日本美術院の創立に参加し正員となった。明治33年(1900)、絵画協会と美術院の連合絵画共進会に出品した作品が、「朦朧体」との酷評を受ける。大観とともにインドや欧米へ旅行し、帰国後は天心に従って茨城県五浦で研究を続けた。明治40年(1907)文展開催にともなって、新派の国画玉成会が結成されると評議員となり、文展で受賞を重ね審査員もつとめたが、眼病をわずらい失明の後38歳で亡くなった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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