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ぴかびあ1( かっさい) ピカビア I(喝采)
犬の頭や人間の顔、手足、アルファベット文字や、トンカチ、ハサミ、ドライバーなどの道具類、それらが落書きのように散りばめられている。その中央には、まだらに赤く彩られたハート形がコラージュによって貼り付けられている。ジム・ダインは1950年代の末以来、アメリカ現代美術の流れの中で遍歴してきた。様々な影響を受けながら彼が獲得した主題、ガウンや道具類、そしてハートは、個性的表現をしりぞけるありふれたものである。しかしこれらの主題は単なる反自己表現のためにのみ棒げられているのだろうか。画面中央にぶら下げられた、いままさにえぐり取られたばかりのようにしずくをしたたらせる赤いハートは彼の自己追求のしるしではないだろうか。日常的で没個性的な主題を用いて、なお自己を表現するというジレンマが彼を神経質にさせ、不安にさせ、妙に沈んだ世界を暗示するのである。(友井伸一「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1989年09月20日掲載)
カテゴリー:作品
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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