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はんがしゅう<りゅうさ>03 かがみのまえのふたりのおんな 版画集〈流砂〉III 鏡の前の二人の女
ピエール・ルヴェルディ著。一九六〇年に没したシュルレアリスムの詩人、ピエール・ルヴェルディの最後の詩にピカソが挿絵を寄せたもの。ピカソは一九五三年頃から、アトリエでの画家とモデルが繰り広げる様々な情景を、日記のように日付を記入しながら大量に制作する。〈流砂〉には、この「画家とモデル」をテーマとする作品のうち、一九六四年から六五年に制作された版画十点が収められた。全てのものがいつかは死に絶えるように、詩人にも必ず死は迫ってくる、こんな当たり前のことが、死に直面した詩人の胸をよぎった。空虚さを埋めようとして、ほとんど狂気ともいえるほど情熱的に生きてきたのは、なんと危なっかしいことだったのだろうか。私は港を出る/細長い航路をたどって/そして死に際して私は立ち戻るのだ、全てをはぎ取られた自分に/時に、ピカソは八十三歳から八十四歳。一つ一つ日付を書き入れ、性的な欲望よりもむしろ、禁欲的な緊張感さえ感じさせる画面に、生きてきた証をなおも刻みつけたいという、偉大なる老画家の孤独な意志が伺える。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
高橋由一とは?【 作家名 】 1828年東京都に生まれる。1862年蕃書調書画学局に入り、川上冬崖の指導をうけ、画学心得となる。1866年横浜でワーグマンの指導を受ける。翌年パリ万国博覧会に洋風画を出品する。1871年大学南校画学掛教官となり、1873年天絵楼を創設する。1876年フォンタネージの指導を受け、翌年第1回内国勧業博覧会出品、三等賞受賞。1879年画塾を拡張、天絵学舎と改める。1881年県令三島通庸の委嘱で山形県下新道の油彩画を描く。1884年天絵学舎を廃校、県令三島通庸の委嘱で栃木、福島、山形の新道を写生する。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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