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はんがしゅう<ひびき>01あかいろのまえのふたりのきしゅ 版画集〈響き〉1.赤色の前の二人の騎手
1911年、ドイツの新芸術協会がカンディンスキーの作品の出品を拒否したことをきっかけに、革新的な傾向の作家たちが集まり、展覧会を開きます。彼らのグループは「青騎士」と名付けられ、その翌年にカンディンスキーとマルクが編集、発行した、前衛的な芸術の年刊誌にも同じ名前がつけられます。20世紀初頭のドイツ美術は視覚的な印象の再現ではなく、感情の表現を重視する表現主義の流れの中にありました。「青騎士」はさまざまな傾向を含み込みながらも、その理念を広めていったのです。この詩画集<響き>は、その伸びやかな形態と鮮やかな色彩により、大きな動きを感じさせ、抽象絵画の制作におけるひとつの高まりを認めることができます。
カテゴリー:作品
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分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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