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はんがしゅう<ひびき>01あかいろのまえのふたりのきしゅ 版画集〈響き〉1.赤色の前の二人の騎手
1911年、ドイツの新芸術協会がカンディンスキーの作品の出品を拒否したことをきっかけに、革新的な傾向の作家たちが集まり、展覧会を開きます。彼らのグループは「青騎士」と名付けられ、その翌年にカンディンスキーとマルクが編集、発行した、前衛的な芸術の年刊誌にも同じ名前がつけられます。20世紀初頭のドイツ美術は視覚的な印象の再現ではなく、感情の表現を重視する表現主義の流れの中にありました。「青騎士」はさまざまな傾向を含み込みながらも、その理念を広めていったのです。この詩画集<響き>は、その伸びやかな形態と鮮やかな色彩により、大きな動きを感じさせ、抽象絵画の制作におけるひとつの高まりを認めることができます。
カテゴリー:作品
満谷国四郎とは?【 作家名 】 岡山県総社市に生まれる。明治24年(1891)中学校を中退し画家を志し上京。五性田芳柳に師事。翌年小山正太郎の不同舎に移る。明治29年に明治美術会展に出品した「林大尉の戦死」、同31年に出品した「尾道港」がともに宮内庁に買上げられ一躍有名となった。明治33年鹿子木孟郎、丸山晩霞らと米国経由で翌年欧州に渡る。パリでジャン・ポール・ローランスに師事、同34年に帰国。明治美術会解散のあと明治35年には吉田博、中川八郎、大下藤次郎らと太平洋画会を結成。明治40年東京府勧業博覧会美術展で「かりそめのなやみ」が一等賞を受ける。この年より文展の開催に際して、審査員として出品する。明治44年再度渡欧する。大正3年(1914)に帰国、ルノアール、セザンヌの影響を受け、画風が客観性に根ざした主観的表現へと大きくる変化、色彩も明るくなる。そしてさらに晩年は単純化と東洋的な装飾性を盛り込んだ独自の作風を築き上げた。大正14年には帝国美術院会員となった。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年) |
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