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はんがしゅうかべ06くちひげをはやしたひとのいるかべ 版画集〈壁〉6. 口ひげを生やした人のいる壁
詩人ギュイルヴィクの「壁」という詩に寄せた15点の版画である。壁の傷や人物を描き出す線は、落書き風を装いながらも、壁を引っかく時の物質の強い抵抗感を感じさせ、また遠近感のないモノクロの画面において、壁と人物は同化している。風雪に耐えて立つ壁に共感した作家の精神が表現されており、絵画の本質をえぐり出そうとしたデュビュッフェ初期の版画の代表作である。
カテゴリー:作品
文展とは?【 美術用語 】 文部省美術展覧会の略。1907年6月、勅令によって美術審査委員会官制がしかれ、続いて美術展覧会規程が告示公布され、最初の官制による展覧会として同年以降毎年秋季に開催された。当初から審査員の選出で紛糾し、美術界を統合した形をとるために当時日本画壇に分立した諸団体と洋画、彫刻の新旧両派から選出した委員に学識経験者を配して均衡をとった。1919年文部大臣の管理下に帝国美術院が設けられ帝国美術院展覧会に改組されたが、在野有力作家の吸収を目的として、35年文相松田源治により帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展覧会として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。1937年からの文部省美術展覧会を新文展と呼ぶことがある。 |
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