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よこやま たいかん 横山大観
水戸に、水戸藩士酒井捨彦、寿恵の長男として生まれる。幼名秀蔵、秀松。のちに、秀麿。母方の親戚の養子となり、横山姓となる。結城正明に学んだ後、開校した東京美術学校に一期生として入学。橋本雅邦、岡倉天心の指導を受ける。卒業後、日本絵画協会絵画共進会などで受賞を重ねた。東京美術学校助教授となるが、明治31年(1898)天心に殉じて美術学校を辞職し、日本美術院の創立に参加。正員、評議員となる。明治33年(1900)、絵画協会と美術院の連合絵画共進会で、「朦朧体」との酷評を受けた。インド、欧米への旅行から帰国後、天心に従い、茨城県五浦で研究を重ね、文展開催以後は審査員を歴任。天心の没後は、文展を離れ、日本美術院を再興。一貫して指導的立場にあった。帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員、日本美術報国会会長などを勤めた。第一回文化勲章受賞、第一回文化功労者となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作家
キルヒナーとは?【 作家名 】 ウィーンでエレガントな有閑マダムや高級娼婦を描く絵描きとして出発、その後、1900年頃にパリへ移住、肖像画家として活動するほか、雑誌(特に「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」)や単行本の挿絵を描いた。一時ロンドンにも滞在し、そこで「ザ・スケッチ」の挿画を描いていた。世界大戦勃発後、彼はニューヨークへ行き、主に女性を描く肖像画家として活動した。キルヒナーが知られているのは、サロン、バー、ナイトカフェなどにたむろして、一種エロティックな仕草をしたがる刺激的な女性たちの絵描きとしてであり(「玩具」、「サルタンの妃」、「青春」、「引っ張られるアモール」)、また、‘キルヒナー・ガール’の呼び名でポピュラーになったモンマルトルのやくざ女の代弁者としてである。1904年、彼はミュンヒェン水晶宮の展覧会に「ウェスタの処女」を出品した。フランス美術協会のパリ展には、1906年、婦人肖像画、1913年、「釈放」、1914年、「御託宣」を出品した。また、パリのユーモリスト展にも多数の水彩画を出品した。彼の水彩画のカラー複製は、特にマックス・ヘルツベルク書店(ウィーン)から出版されている。 |
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