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にしのはて 西のはて
ドイツに生まれたヤン・フォスは、1960年からパリに住み続けている。1960年代初頭、抽象表現主義的な傾向がもたらした、抑制を受けない描き方の流行の中で、彼はそのような、意志の働かない、目的のないようにも思えるやり方とは違ったものをつかもうとしていた。まわりの出来事とのコミュニケーションを通じて世界を把握しようとする意志がフォスには見られる。この作品には彼の目についた出来事、散歩する人や馬にのる人、ロデオの光景などが、奥行きのない平面に、落書きのような稚拙な線で描かれている。人々の会話も書きとめられている。抽象表現主義のように、画家の行為そのものを画面にぶつけるのではなく、そのような行為をいわば記号として書きとめることによって、フォスは、ものごととの距離を測り、そして、それらを直接に所有しようとしている。この作品は、フォスの所有する世界の見取り図なのだろうか。(友井伸一「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1990年10月17日掲載)
カテゴリー:作品
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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