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りるけまるてのしゅきよりいちぎょうのしのためには リルケ『マルテの手記』より:一行の詩のためには/・・・
ライナー・マリア・リルケ著。ドイツの詩人リルケの唯一の長編小説『マルテの手記』に想を得たもの。リルケのパリ時代の日記、手紙、備忘ノート、断片的感想などを一冊にまとめあげた手記のような小説。デンマークの貴族の家に生まれた若き無名の詩人、主人公マルテを通じて語られるリルケの内的な黙想の記録。ベン・シャーンは、この詩の言葉から生まれた断想を絵にした。「詩は感情ではなく経験である」というリルケの言葉に深く共感していたシャーン。若いころに出会い、終生愛読した『マルテの手記』を、シャーンは詩の前年にようやく作品化したのである。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
野田九浦とは?【 作家名 】 1879年東京都に生まれる。父は旧舞鶴藩士。本名道三。1883年(明治16)一家で北海道函館に転居。地元で作画の手ほどきを受けたのち、来遊した寺崎廣業にともなわれて1895年上京し、廣業の画塾に学ぶ。翌年東京美術学校日本画科選科に入学するが、1898年の東京美術学校騒動に際して同校を退学、日本美術院研究生となる。また、廣業のすすめで白馬会研究所に通い、人体デッサンなども学ぶ。1899年第6回日本絵画協会共進会に入選して、2等褒状を受賞。1907年の第1回文展で2等賞を受賞、第5回展、第7回〜10回展でいずれも褒状を受け、第11回展では特選となる。以後、官展を主な活躍の場とした。1947年(昭和22)帝国美術院会員となる。その画風は、はじめ寺崎廣業の師風を色濃く反映したものであったが、大正期に入り、しだいに浪漫的なものから自然主義的なものへと変化をみせた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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