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しんだひとがわたしをうんでくれた(しょうわ40ねん7がつ27にちははしす) 死んだ人がわたしを産んでくれた(昭和40年7月27日母死す)
前年に亡くなった母親をしのんで描いた作品。画面の右下には、「貞行院順徳妙善大姉(母親の法名)に捧ぐ」と書き込まれています。13歳の年、山下は高松にあった工芸学校に進学し、その後絵の勉強のために上京しました。家族と暮らしたのは少年時代までですが、肉親や郷里の風土は、晩年まで懐かしく忘れ難い存在だったようです。この作品の翌年には、郷里への愛惜の念をこめて、次のような文章を残しています。<親不孝の一つであった。絵を書く道に迷いこんでいるうちに、大好きな父や母を、あの美しい吉野川を眼下に一望する見はらし台の一角に永眠させてしまった>(「ふるさとを描く6 近代という怪物」徳島新聞1967年5月8日付)しかし山下が描くと、たとえ大好きな母親であっても、美しい肖像画とはなりません。山下によると、画面の中央に腰をおろす人物が母親。母親の白い肌にはしわがより、所々破れた皮膚から、内蔵を思わせるような異物が姿を見せています。そしてその周囲を取り囲むのが、やはりすでにこの世にいない父親や兄弟たち。白馬の後ろにひときわ大きく描かれた父親の顔は、まるで鳥のようです。新聞の写真では白黒なので分かりにくいが、まだ生きている山下だけは画面の右側に赤い人物としてえがかれています。山下の作品には、幾つかのイメージが重ね合わされいることがあります。母親の崩れていく肉体は、そこが死者の住む世界を意味していると思われますが、さらに幼いころに見た沼の記憶が重ねられているのかもしれません。幼いころの山下は、親にしかられると、めったに人が寄りつかない不気味な沼のほとりで、さまざまな空想をめぐらしてすごしたといいます。画面には魚のような生物も描かれ、そこが深い沼の水底であるかのような印象を与えています。山下は、少年時代に親しんだ故郷の沼に冥界(めいかい)のイメージを重ねていたのではないでしょうか。
カテゴリー:作品
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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