ぐるぐるアートワード
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版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉2. バルトロマイ 波流戸呂舞の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉3. アルバヨの子ヤコブ 或婆夜の子 屋仔舞の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉4. ヨハネ 世跳の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉5. ペテロ 遍天呂の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉6. アンデレ 案出禮の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉7. トマス 登増の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉8. マタイ 馬鯛の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉9. マフテヤ 摩手也の柵



版画集〈11人のポップ・アーチストII〉4. 夢想



版画集〈11人のポップ・アーチストII〉11. タバコ・ローズ



版画集〈壁〉パラシュートのある壁(表紙)



版画集〈壁〉壁と人間 扉



版画集〈壁〉1. 絵解きの壁



版画集〈壁〉2. 鳥のいる壁



版画集〈壁〉3. 壁のなかで動けなくなった人間



版画集〈壁〉4. 壁のあいだを通り抜けている



版画集〈壁〉5. 壁の前のダンス



版画集〈壁〉6. 口ひげを生やした人のいる壁



版画集〈壁〉7. 人間と壁



版画集〈壁〉8. 壁の前で用を足す人たち


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そうれつ(べとなむ)

葬列(ベトナム)

作家名:山下菊二
制作年:1967年
技 法:油彩 キャンバス
1960年代の半ばから、山下は自らの戦争体験や、当時泥沼化していたベトナム戦争について、積極的に発言するようになります。作品の主要なテーマとするようになり、「戦争展」や「反戦と解放展」と銘打った個展を開いています。この作品もその一点です。題名にあるとおり、ベトナム戦争で死んでいく兵士や民衆の死をイメージしています。山下の作品を 理解する場合、彼自身の戦争体験を避けて通ることができません。太平洋戦争中、山下は兵士として中国南部の戦線に送り込まれました。そこで筆舌に尽くし難い残虐行為を目にし、彼自身も上官の命令で手を下すことを強いられたといいます。しかし戦後になって、少数ながら上官に銃を突き替えした兵士がいたことを知り、がく然とした山下は「上官の命により、そうさせられたのだ、仕方のなかったことだと、自分に納得させることはできない」と語っています。そして、戦争を生み出し、自分を戦争へ追いやったものが何だったのかを、執拗(しつよう)に問い続けることになります。戦争、ひいては戦争を容認した社会構造の告発が、作品の主要なテーマに据えられるようになったのです。この作品には銃口や弾丸など、ベトナム戦争をイメージさせるものが描かれています。しかしそこには山下が中国で体験した戦争のイメージも重ね合わせていると思われます。がい骨の履物は日本の草履ですが、少し昔の日本では、棺(ひつぎ)を担ぐ人は草履を履くものとされていました。画面には第二次大戦で亡くなった日本兵の葬列のイメージも重ねられているようです。現地の人を苦しめ、一方では日本の若者たちも次々と死なせていった愚行が、再びベトナムの地で繰り返されている愚かさを訴えようとしたのでしょう。


カテゴリー:作品
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ヨーゼフ・ホフマンとは?【 作家名 】

1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。

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  「コンコーディア舞踏会」

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  「第10回ウィーン分離派展カタログ」

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徳島県立近代美術館2006