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そうれつ(べとなむ) 葬列(ベトナム)
1960年代の半ばから、山下は自らの戦争体験や、当時泥沼化していたベトナム戦争について、積極的に発言するようになります。作品の主要なテーマとするようになり、「戦争展」や「反戦と解放展」と銘打った個展を開いています。この作品もその一点です。題名にあるとおり、ベトナム戦争で死んでいく兵士や民衆の死をイメージしています。山下の作品を 理解する場合、彼自身の戦争体験を避けて通ることができません。太平洋戦争中、山下は兵士として中国南部の戦線に送り込まれました。そこで筆舌に尽くし難い残虐行為を目にし、彼自身も上官の命令で手を下すことを強いられたといいます。しかし戦後になって、少数ながら上官に銃を突き替えした兵士がいたことを知り、がく然とした山下は「上官の命により、そうさせられたのだ、仕方のなかったことだと、自分に納得させることはできない」と語っています。そして、戦争を生み出し、自分を戦争へ追いやったものが何だったのかを、執拗(しつよう)に問い続けることになります。戦争、ひいては戦争を容認した社会構造の告発が、作品の主要なテーマに据えられるようになったのです。この作品には銃口や弾丸など、ベトナム戦争をイメージさせるものが描かれています。しかしそこには山下が中国で体験した戦争のイメージも重ね合わせていると思われます。がい骨の履物は日本の草履ですが、少し昔の日本では、棺(ひつぎ)を担ぐ人は草履を履くものとされていました。画面には第二次大戦で亡くなった日本兵の葬列のイメージも重ねられているようです。現地の人を苦しめ、一方では日本の若者たちも次々と死なせていった愚行が、再びベトナムの地で繰り返されている愚かさを訴えようとしたのでしょう。
カテゴリー:作品
池田蕉園とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。旧姓榊原、名は由理、通称百合子。父は泉州岸和田藩士、母は国沢新九郎、本多錦吉郎に油彩画を学んだと言う。麹町女子学院卒業後すぐ、16歳で水野年方に入門。1907年(明治40)東京府勧業博覧会で2等賞を受賞。同年の第1回文展で3等賞を受賞したのを最初に、第2回展、第3回展、第4回展と連続4回3等賞を受賞した。その後も第5回展、第6回展、第8回展で褒状を、第9回展で3等賞、第10回展で特選を受賞した。彼女のこうした活躍は上村松園と比され、西の松園、東の蕉園と並び称された。1911年には、婚約以来8年もの紆余曲折をへて同門の池田輝方と結婚、16年(大正5)第10回文展では夫婦そろって特選をとるなど、おしどり作家といわれた。結婚後の蕉園は、夫輝方をもりたてるために第一線から身をひくようなところがあり、そのために夢を追うような初々しさのただよう美人画から次第に作風が変化、江戸っ子の典型のような輪郭のはっきりした女性像になっていく。1917年肋膜炎のため31歳の若さで没する。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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