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ばくふず 瀑布図
彼の画業の特徴は、西洋絵画や中国の沈南蘋の表現や、明代の花鳥画などから吸収した画法をもとにして生み出した新しい写生表現にある。<瀑布図>の細部を見ると、たとえば岩壁の質感や形態、明暗の表現などが、丹念な観察によって捉えられており形式化されていない。また、手前から奥の滝までの空間を、滝壷のなかに置かれた岩を中心にして、奥行きと空間をもって表している。水しぶきの形態など伝統的な画法を用いながら、写生にもとずいて描写した様々な要素を構成することで、実在感のある画面をつくりだしている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
狩野芳崖とは?【 作家名 】 1828年長門(現在の山口県)に、長府藩御用絵師、狩野晴皐の長男として生まれる。1888年没する。幼名は幸太郎。はじめは、父に指導を受け、皐隣と号した。19歳のとき江戸に出て、木挽町狩野家、狩野雅信に入門。弟子頭(塾頭)となる。雪冬や雪村などの他、南宋の馬遠や夏圭(かけい)なども独習。同門には、橋本雅邦、木村立嶽がいた。万延年間の江戸城本丸御殿修復では、天井画を担当。幕末は、国元で国事に奔走するが、明治10年(1877)上京。苦しい生活のなかで制作を続け、内国絵画共進会などに出品。フェノロサに才能を見いだされ、その指導のもとに制作し、晩年期は、明治17年(1884)に結成された鑑画会を中心に活躍。文部省御用掛、図画取調掛雇をつとめ、東京美術学校設立に尽力した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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