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へいすてるぞう ヘイステル像
<ヘイステル像>は、オランダの医学書に掲載された肖像画を模写したものであろう。右下には、「Door Van Dijk」の落款があり、フランドルの画家ヴァン・ダイク(Antoon van Dyck 1599-1641)を意識している。西洋の画家に自らを擬しながらも、絹本と毛筆を用いて細密な銅版画を模写するとき、忠実に描きながらも写しきれないところがある。本図では、銅版画の細線が集まってつくられる明暗が、濃淡に置きかわっている。広い面に墨をおくとき、物理的で平坦な色面ではなく、淡く彩色を重ねることで奥にある空間を暗示する表現になっている。西洋と東洋絵画の間にある画材の違いは、このときから大きな問題であった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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