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ふぁん・ろいえんかちょうずもしゃ ファン・ロイエン花鳥図模写
彼は、中国の宗、元、明、清の諸流派、狩野派、土佐派、琳派、あるいは円山四条派や北山寒巌とともに学んだ洋風画など、さまざまな表現を吸収している。文晁の八宗兼学である。このような諸派の折衷を認める姿勢が、東洋の伝統とは違う西洋画法を取り入れるうえで重要な要素となった。<花鳥図模写>は、オランダの作家ウィレム・ファン・ロイエン(Willem Van Royen 1654-1728)の模写である。原画は、将軍家御用品として発注されたもので、オランダから日本に舶載され、後に本所五百羅漢寺に寄贈された。文晁の西洋絵画摂取の姿勢をうかがうことができる作例である。同じ原画からの模写として、石川大浪、孟高による作品も残されている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
浅井忠とは?【 作家名 】 東京都に生まれる。1863年父の死去のため家督を相続し佐倉に帰郷。翌年佐倉藩の絵氏黒沼槐山に花鳥画を学ぶ。1873年上京し、箕作塾で英学を学び、1876年国沢新九郎の彰技堂に入門。初めて西洋画の初歩を学び、工部美術学校に入学してフォンタージに師事する。1878年フォンタネージの帰国後、後任のフェレッティを不満として美術学校を退学。1899年明治美術界を創立。1898年東京美術学校教授となる。1900年渡仏し、パリ近郊のグレーなどに滞在。1902年パリを立ち、イタリア、ドイツ、イギリスを巡歴して帰国。東京美術学校を辞し、京都工芸学校教授に就任して京都に移る。1903年自宅に聖護院洋画研究所を創設。1906年関西美術院を開設し、初代院長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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