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せきちゅうとうろうさるず 雪中灯籠猿図
狙仙の描く猿の特徴は、ある形式から入った表現ではなく、猿の姿や生態を観察することで得られるリアリティーにあると考えられる。狙仙自身の起居や飲食のさまが猿のようだといわれたエピソードも、このリアリティーと関わっていよう。本図には、灯篭のなかで雪をさけている猿たちの姿が、個々の表情や動作まで含めてユーモラスに描かれている。ここで写実とは、遠近表現の理論や技法の外部からの移入ではなく、画家の視覚と感性をとおした観察による表現といえるだろう。本図には、祖仙の落款がある。狙仙と改号したのは、文化4年(1807)、還暦を過ぎた頃と推定されているので、それ以前の作と考えられる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
土田麦僊とは?【 作家名 】 1887年新潟県に生まれる。本名金二。弟茂(つとむ)は後の思想家土田杏村で、国画創作協会の結成にも協力する。1903年(明治36)、僧になるため京都に出たが、画家を志して預けられた智積院から出奔、まず鈴木松年の門に入り、松岳と号した。しかし旧派の松年に飽き足らず、04年竹内栖鳳に入門して麦僊の号を受ける。翌年から新古美術品展に出品。08年の第2回文展で〈罰〉により3等賞を受賞。09年新設の京都市立絵画専門学校別科に入学、11年に卒業した。この間、黒猫会、仮面会を結成し展覧会を開いた。絵専卒業制作〈髪〉により第5回文展で褒状。中井宗太郎や雑誌「白樺」の影響で西洋美術に触れ、〈島の女〉(第6回文展)、〈海女〉(第7回文展)などを発表。1918年(大正7)には、竹喬、紫峰、華岳らと国画創作協会を結成、第1回展に〈湯女〉を出品。1921年竹喬、晩花らと渡欧、ルノワールの画室を訪門するなど西洋美術に直接触れ、23年帰国。翌24年第4回国展には〈舞妓林泉〉を出品。1928年(昭和3)の国画創作協会解散後は官展に復帰した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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