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のだ きゅうほ 野田九浦
1879年東京都に生まれる。父は旧舞鶴藩士。本名道三。1883年(明治16)一家で北海道函館に転居。地元で作画の手ほどきを受けたのち、来遊した寺崎廣業にともなわれて1895年上京し、廣業の画塾に学ぶ。翌年東京美術学校日本画科選科に入学するが、1898年の東京美術学校騒動に際して同校を退学、日本美術院研究生となる。また、廣業のすすめで白馬会研究所に通い、人体デッサンなども学ぶ。1899年第6回日本絵画協会共進会に入選して、2等褒状を受賞。1907年の第1回文展で2等賞を受賞、第5回展、第7回〜10回展でいずれも褒状を受け、第11回展では特選となる。以後、官展を主な活躍の場とした。1947年(昭和22)帝国美術院会員となる。その画風は、はじめ寺崎廣業の師風を色濃く反映したものであったが、大正期に入り、しだいに浪漫的なものから自然主義的なものへと変化をみせた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
デュシャンとは?【 作家名 】 1887年フランスに生まれる。1968年没する。ジャック・ヴィヨンとレイモンド・デュシャン・ヴィヨンは兄にあたる。1904年から5年にかけてパリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。兵役を径て1906年パリへ戻る。フォーヴィスムや未来派、キュビスムなどの新しい潮流に触れる。1913年ニューヨークで開かれた「アーモリー・ショー」に〈階段を降りる裸婦〉を出品する。キュビスムと未来派を結合したようなこの作品は話題を呼ぶ。第1次世界大戦を機に1914年ニューヨークに渡り、ピカビア、マン・レイらと共にニューヨーク・ダダの中心として活動する。レディ・メイドを始め、1917年には既製の便器にR・MUTTとサインしただけの〈泉〉を発表した。1915年から23年にかけては大きなガラス板に鉛の糸と油彩で描いた〈独身者によって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)〉を製作した。芸術という制度を強烈に拒否した彼は、今世紀の最も影響力を持つ芸術家の1人として認められている。 |
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