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いちかわべいあんぞう 市河米庵像
京都国立博物館蔵、重要文化財。本図には、書家で幕末の三筆に数えられた市河米庵が描かれている。米庵の還暦を祝い贈ったもので、図上は米庵の自題である。崋山の場合、西洋的な遠近表現を、中国絵画などの様式に流し込むだけでなく、自己が知る身近な風景や人物を率直に捉えた作品を描いている。<四州真景図>などの風景画や、いくつかの人物表現がそうである。この<市河米庵像>は、顔のみに濃淡で明暗をつけ、衣服は線描を写実的に展開している。従来の日本絵画の素材や技法のなかに西洋画法を取り込み、明暗表現と線による形態把握の二つの面から洗練を加えながら描きだしている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
谷文晁とは?【 作家名 】 田安徳川家の家臣で詩人でもあった谷麓谷の子として江戸に生まれる。名を正安、通称文五郎。写山楼、画学斎などと称した。はじめ、狩野派の加藤文麗、南蘋風を得意とした渡辺玄対に学ぶ。田安家に出仕し、老中松平定信付けとなり画才を見いだされる。定信の命で、巡視に随行して描いた〈公余探勝図巻〉の制作や畿内における寺社の古画などを調査した『集古十種』の編纂に参加。その後、中国の北宗画、南宗画を中心にさまざまな表現を折衷し、また統合した作風を展開した。多くの門人を育て、江戸画壇の大御所的な存在となった。門人には、立原杏所、渡辺崋山、高久靄?香iあいがい)などがいる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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