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たかがりず 鷹狩図
これは、鷹狩のようすを描いたものだが、風景が俯瞰的にとらえられている。近景の池から、木々や小山を通して田圃が遠方まで広がるようすには、西洋の遠近表現も取り込まれている。流派の伝統だけにとらわれず、東西の幅の広い表現を取り入れるなかで溶け込んだ新しい視覚の表現といえるだろう。狩野家の当主をつとめながら、同時代の新しい傾向に無関心ではなく、西洋絵画の影響を受けた表現を部分的とはいえ、自己の表現に取り入れはじめていたことを示している。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 |
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