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かけいさんすいず 夏景山水図
幕末の作品である<夏景山水図>では、中国の山水を遠近感と空間を意識して描いている。墨画の技法を使いながら、岩山の陰影や質感などに見られるように、遠近表現を強調しながら構築的画面をつくりだしている。寛斎は、文人的教養に深く身をひたし、森派が属する円山派の写生に、中国画研究で得た表現方法を加えていった。円山派と京都画壇の重鎮となった画家の、新しい時代に対応しようとする試みのひとつといえるだろう。流派の表現を継承しながらも、他方で、表現を大きく変容させるほど、中国絵画の影響を受けた作品を描いたことは、幕末期の円山派を考えるうえで注目される。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
森寛斎とは?【 作家名 】 長州藩士石田伝内道政の三男として長門(現山口県)萩に生まれる。字は、子容、寛仲。通称を尚太郎。寛斎の他に桃蹊、晩山の号を用いた。萩の画家太田龍に学んだのち大阪の森徹山の門に入り、のちに姓を森と称した。長州藩のために倒幕運動に奔走するが、安政の御所造営に際して杉戸絵などを制作している。明治維新後は、研究団体如雲社の運営に関わるとともに、京都府画学校へ出仕。また、第一回内国絵画共進会で銀印を受けるなど、博覧会や絵画共進会で活躍し審査員もつとめた。京都絵画研究会会長、帝室技芸員を歴任。明治初期の京都において、指導的役割をはたした画家のひとりである。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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