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らんざんしゅうふうず 嵐山秋楓図
京都の嵐山を描いたものである。筏のいる大堰川と渡月橋が見える。賛は、醍醐天皇の皇子で、嵐山の山荘に隠棲した兼明親王のものを引用している。嵐山の美しさがたたえられているが、鉄斎は賛に応えるように、大和絵の様式を用いてその風景を描いている。鉄斎は、明治16年(1883)頃から大和絵や琳派の研究をはじめ、その成果の表れた作品を残している。本図は、そのうちの一点である。様式化され、単純化された山や松の形態、緑の鮮やかな色彩が特徴的である。当時の美術界における復古的傾向に、何らかの形で反応したのか定かではない。しかし、本図に見られる、鉄斎50歳代の大和絵に学んだ彩色法が、後の表現の高みに生かされていったのは確かであろう。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
小田海僊とは?【 作家名 】 1785年周防(現在の山口県)に生まれる。1862年没する。名は瀛、字は巨海。通称良平、南豊とも号した。下関で育ち、京都に出て、四条派の呉春に師事した。呉春の没後、長崎など九州を遊歴し、中国絵画を学び、南画を描いた。頼山陽、田能村竹田、浦上春琴などの儒者、漢詩人、画家などと交流。文政7年(1824)萩藩毛利家の御用絵師となるが、2年後、修練のため京都居住が許される。『海僊画譜』『十八描法』などの画譜を刊行。晩年は、京都画壇を代表する画家のひとりとなった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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