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しんざんしゅうしょくず 深山秋色図
雅邦は、海軍に勤務していたとき、測量図や銅版画の制作にたずさわり、油彩画も描いていた。そこで身につけた西洋画法は、フェノロサや天心と出会ってから、伝統的技法を使った表現のなかで生かされることになる。狩野派や室町の水墨画などに学んだ筆法や山水の世界を守りながらも、そこに、遠近表現を込めた作品を描いていく。<深山秋色図>も、そのようにして表された一点である。遠方の山までの距離や、岩壁の上部が霧におおわれ、空と一体になったようすを描きだすなど、山水画の世界を、西洋画法の空間のなかに再構成しようとしている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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