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ぐんえんのず 群猿之図
玉章は、洋画の学習で得た合理的な空間表現、現実的な質感や明暗表現など、西洋絵画の方法を円山派の写生の延長線上に捉え、結びつけた。円山派の写生と西洋絵画の写実とは、彼のなかでは矛盾するものではなく、連続する性質のものであったように思われる。円山四条派にあった写生に西洋的写実を加えようとする方向をさらに推し進めたといえる。<群猿之図>は、その写実化を強める前の段階にあたるもので、猿や水流の表現など、円山派の表現を修得し、そこに現実的な表現をつけ加えようとしている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
キルヒナーとは?【 作家名 】 ウィーンでエレガントな有閑マダムや高級娼婦を描く絵描きとして出発、その後、1900年頃にパリへ移住、肖像画家として活動するほか、雑誌(特に「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」)や単行本の挿絵を描いた。一時ロンドンにも滞在し、そこで「ザ・スケッチ」の挿画を描いていた。世界大戦勃発後、彼はニューヨークへ行き、主に女性を描く肖像画家として活動した。キルヒナーが知られているのは、サロン、バー、ナイトカフェなどにたむろして、一種エロティックな仕草をしたがる刺激的な女性たちの絵描きとしてであり(「玩具」、「サルタンの妃」、「青春」、「引っ張られるアモール」)、また、‘キルヒナー・ガール’の呼び名でポピュラーになったモンマルトルのやくざ女の代弁者としてである。1904年、彼はミュンヒェン水晶宮の展覧会に「ウェスタの処女」を出品した。フランス美術協会のパリ展には、1906年、婦人肖像画、1913年、「釈放」、1914年、「御託宣」を出品した。また、パリのユーモリスト展にも多数の水彩画を出品した。彼の水彩画のカラー複製は、特にマックス・ヘルツベルク書店(ウィーン)から出版されている。 |
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