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あぼうきゅうず 阿房宮図
<阿房宮図>は、中国古代の秦朝末期、楚の項羽によって火を放たれた宮殿が炎上するようすを、中国の画院画家の表現を学びながら描いている。制作を依頼したのは、幕臣の久貝因幡守正典。玉蟲敏子氏は、幕臣の間で、中国の歴史に基づく歴史画の制作が企画されていたことを指摘している(注)。中国の古典による歴史画は、明治以降、中国風の表現が薄まり、題材も再編され限られたものになっていくが、本図を含む容斎の作品は、それらに対する幕末期の表現の位置を示す存在でもある。(注)玉蟲敏子「静嘉堂の近代美術」「日本の近代美術展」図録 静嘉堂文庫美術館 1993(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
フェリックス・ビュオとは?【 作家名 】 ノルマンディーのボローニュで生まれ、1865年にルコック・ド・ボワボードランの下で絵画を学ぶためパリに赴く。1872年、扇職人のデュヴェルロワの下で働き、そこで日本の扇のデザインを学んだ。また、水彩によって海景や風景を描き始めたのもこの時期であった。彼が、初めてエッチングを手がけたのは1874年からで、その頃批評家で日本美術のコレクターであるフィリップ・ヴュルティに出会った。ビュルティは彼に『ジャポニスム:10のエッチング』(1875年から始まり1883年に出版された)のために、自分のコレクションから日本美術品の複製版画を制作するように依頼した。ビュオは特に日本美術から学んだ大気の効果を出すのが得意であった。彼はまた、写真を研究し、写真をもとに版画を制作している。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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