![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
もうこしゅうらいのず 蒙古襲来之図
幕末期の容斎の作品には、中国の画院画家の表現に学び、中国史を題材にした歴史画がある一方、日本の歴史を積極的に作品化した。有職故実の研究をふまえて、歴史上の人物を写実的表現も加えながら描いている。それに対して、<蒙古襲来之図>では、写実化を進めてはいない。復古大和絵の画家たちと連なるような、歴史的な題材と日本化された表現を一致させようとした作品である。この翌年、長州藩における欧米艦船への攘夷と薩英戦争がおこるなど、欧米諸国との緊張が高まった時期に描かれた。勤皇思想に傾倒したこの期の容斎にとって、蒙古襲来は、外圧に抗するという意味で重要な意味を持つ歴史画となったhttp://www.geisya.or.jp/ ~bouga
カテゴリー:作品
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||