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はちまんたろうのず 八幡太郎之図
風景や動物など、自然から得たものを題材とすることが多かった円山派の画家にとって、歴史画は、新たに学ぶ必要のあるものであった。<八幡太郎之図>の雁の群れや、武者の後方にある芒の原から遠方の山までは、円山派を背景とする自然描写である。それに対して、写実的に描かれた武者たちは、有職故実を踏まえ、典拠を求めて表情や動作をつくり、構成しなければならなかった。武者たちと、背景の風景が充分に融合していない理由のひとつであろう。歴史画は、人物表現の実績の少ない画派や画家も含めて描かれるようになっていた。この作品は、第一高等中学校(現東京大学教養学部)からの依頼で描かれたもので、後三年の役の鎮圧に向かった源義家が、雁の乱れ飛ぶのを見て、潜む敵を察知したところを表している。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
シニャックとは?【 作家名 】 新印象主義の代表的な理論家シニャックは全くの独学で画家となっている。1880年代には、印象派のモネ、シスレー、ルノワール、ギョーマンらの影響を受けていたが、1884年にスーラの作品を見、さらに1885年にカミーユ・ピサロと息子のリュシアンに出会ってから、本格的に点描法を取り入れ、色彩論を学び始めた。ルイ・ゴンスがジョルジュ・プティ画廊で1883年に開いた日本美術回顧展やパリで開かれたその他の日本美術の展覧会(たとえば1883年と1884年の装飾美術中央連合での日本画家年次展を確かに観ているにもかかわらず、彼の作品にジャポニスムの影響が現れたのは1885年から1886年頃である。ピサロ父子やスーラ(スーラは1885年頃から日本美術の影響を受けている)や、1887年にパリで出会ったゴッホとの親交によって、彼の極東への関心は高まっていった。1885年に版画を始め、まずエッチングの制作を試み、ついで1888年に、新印象主義色彩論を取り入れた多色刷石版画を制作した。彼は浮世絵版画に見られるような大気の明るさと色彩効果を版画に表現しようとした。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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