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ふじがわたいしょうず 富士川大勝図
<富士川大勝図>は、明治27年(1894)の京都市美術工芸品展に「平軍驚禽声逃走図」として出品され、二等賞を得たものである。水鳥の群の羽ばたく音に驚き逃げまどう平家の大軍を、源氏の兵士が追撃する。後の栖鳳が、ほとんど描くことのなかった歴史画である。明治20年代の画壇において、これまで歴史画とは無縁であった画家までもが試みるほど歴史画制作の雰囲気があったことがわかる。栖鳳はこの作品で、大和絵などの人物表現の伝統に学びつつ、形態に現実味を加えている。栖鳳は、多様な流派の表現を試みながら、それぞれの流派が、空間や遠近表現など、近代に対応しようとしていた表現をもつかもうとしている。鵺派と揶揄されたように、初期の栖鳳が、さまざまな表現を学んでいたことを示す作例である。そしてまた、ほぼ同時期に、異なった流派の表現を試みていたことも知ることができる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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