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げんこう 元寇
日清戦争期には、蒙古襲来を題材とする作品が多く描かれている。第一高等中学校(現東京大学教養学部)の依頼で描かれた、<元冦>もその一点である。幕末から、神風に翻弄される元の軍船が描かれることの多いテーマだが、ここでは、集団で上陸する元の軍勢に竹崎季長らが立ち向かうようすを捉えている。鎌倉時代の<蒙古襲来絵詞>や<伴大名言絵詞>を学んだことが指摘されているように(注)、大和絵研究が背景にある作品である。同時に、この作品の遠近表現は、俯瞰的に距離を示すのではなく、地平線上に、色の濃淡や大小関係で奥行きを示そうとする試みが成されおり、写実的表現と相まって、西洋的な群像表現に近づいた歴史画となっている。(注)作品解説 「大観と観山」展図録 横浜美術館 1990 p.192(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
ドラートルとは?【 作家名 】 版画家で出版業者の父、オーギュスト・ドラートルの息子として生まれた彼は、当時の最も優れたグラフィック・アーティストたちの仕事ぶりを見ながら、家業をおぼえていった。彼は自分が住み、仕事をしていたモンマルトルという場所の土地柄と活気を好み、版画の制作に活かしている。1890年頃、日本の多色刷版画に刺激されて、多色刷エッチングを試みはじめた。ドラートルはとりわけマクシム・モーフラやリヒャルト・ランフト、スタンランらにエッチングを教え、19世紀末に数多くのオリジナル版画を印刷した。1896年、S・ビングのギャラリー「アール・ヌーヴォー」に13点の版画を出品したが、おそらく彼の日本美術コレクションはビングを通じて作り上げられたものと思われる。1899年、多色刷版画協会の一員となり、その年次展に出品された版画の多くを印刷した。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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