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ちちゅうかいしんけいず 地中海真景図
本図は、芳崖が、西洋の風景写真を参考にして描いたものといわれる。手前の切り立った岩壁にある建物から、遠方に霞む火山までを、西洋的な遠近表現を生かして描いている。基となった写真はわかっていないが、岩壁や、険しく尖った山の表現は、同時期の芳崖の山水と同様のものであり、芳崖の方法をとけ込ませている。西洋絵画への関心を示しているものの、留学を経験しなかった芳崖が、まだ見ぬ西洋の風景を、漢画の世界に置き換えた風景画といえるだろう。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
菱田春草とは?【 作家名 】 筑摩県飯田郡(現在の長野県)に生まれる。本名は三男治。上京し、結城正明に学んだ後、東京美術学校に進み、橋本雅邦、川端玉章に師事する。卒業後、日本絵画協会絵画共進会で受賞を重ねるとともに、母校の絵画科嘱託として予備過程の授業を担当したが、明治31年(1898)天心に殉じて美術学校を辞職。日本美術院の創立に参加し正員となった。明治33年(1900)、絵画協会と美術院の連合絵画共進会に出品した作品が、「朦朧体」との酷評を受ける。大観とともにインドや欧米へ旅行し、帰国後は天心に従って茨城県五浦で研究を続けた。明治40年(1907)文展開催にともなって、新派の国画玉成会が結成されると評議員となり、文展で受賞を重ね審査員もつとめたが、眼病をわずらい失明の後38歳で亡くなった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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