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ろうし 老子
<牧牛>と同じ、東京美術学校在学中の作品である。当時、美術学校には、古画を重視するとともに、「新案」という科目があり、生徒の創造的な表現を引き出そうとした。ここで春草は、古画の学習の成果を生かしつつ、新しい課題に取り組んでいる。皴法を多用し、牛の背に乗り深山を行く、伝統的図像を踏襲しながらも、老子の表情を人格や意志まで読み取れるよう写実的に描こうとしている。明治の20年代、盛んに描かれた近代の歴史画には、有職故実の正確さだけではなく、描かれた人物の表情を表す必要が生まれてくる。そのためには、写実的表現が必要となった。人間表現も流派の持つ表現の背景から切り離され、一人の作家のなかで再構成されようとしている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
狩野養信とは?【 作家名 】 1796年木挽町狩野家八代狩野伊川院栄信の長男として生まれる。1846年没する。名は、養信(はじめ「たけのぶ」、のちに「おさのぶ」)。通称庄三郎。最初は玉川としていたが、のちに清川院、会心斎とも号した。文政2年(1819)法眼。文政11年(1828)家督を継承。天保4年(1833)法印となった。天保10年(1839)、弘化2年(1845)にそれぞれ完成した、江戸城西の丸御殿、本丸御殿の再建に際する障壁画制作の中心となった。また、模写事業をすすめ、室町漢画や中国絵画、初期狩野派など多くの模写を残した。そのなかには、大和絵や沈南蘋など狩野派の伝統とは異なった模写も残されている。養信は、明治の東京画壇で活躍した狩野芳崖、橋本雅邦の師としても知られている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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