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ひせん 飛泉
<飛泉>には、滝の水しぶきによって、霧のかかったような空気が、滝壺をはさんだ手前から滝までの距離感のなかに描かれている。橋本雅邦ら前の世代の画家も、狩野派、室町水墨画の表現を生かしながら、空気の奥行きがある空間をつくりだそうとした。部分的だが、線を用いることなく、霧のある風景も表している(No.45)。大観、春草らの無線描法は、それをさらに展開したものといっていいだろう。狩野派などの修行を経た世代が、線の表現、皴法などを流派の様式や価値の背景から切り離して用いることができなかったのに対して、大観らの姿勢は、きわめて大胆であった。「朦朧体」は、線を使わず描いただけでなく、流派と表現の関係を分離して、一つひとつの手法を作家の表現のなかで組み替える前提を用意したといえる。批判を浴びたが、一度は通らなければならない近代への入口であった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
丸山晩霞とは?【 作家名 】 長野県に生まれる。本名は健作。1884年上京し、勧画学舎に学ぶが1年足らずで帰郷。1888年再び上京し、本多錦吉郎の彰枝堂に学ぶ。1890年、第3回内国博覧会に油彩画を出品。1895年、吉田博と出会い、水彩画に興味を抱く。1990年満谷国四郎、河合新蔵らと渡米。その後ヨーロッパを巡って翌年帰国。太平洋画会の創立に参加。大下藤次郎らと水彩画講習所を開き、さらに日本水彩画会研究所へと発展させた。1911年再渡欧。1913年に日本水彩画会の創立に参加。評議員となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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