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かみ 髪
麦僊は佐渡のひと。本名金二。始め鈴木松年、後に竹内栖鳳に師事。明治41年の第2回文展「罰」などで早くから画壇の注目を浴び、「海女」「大原女」「三人の舞妓」などヨーロッパ近代絵画をとり入れた話題作を文展に発表したが、より自由な制作の場を求めて、大正7年に、小野竹喬、村上華岳らと国画創作協会を設立、近代日本画史に特筆される新しい日本画運動をおこした。昭和3年の解散の後は帝展に復帰、山南塾を主宰するなど、後進の指導にも尽くしたが、完成されたかに見えた画業の一層の展開を見ずに惜しまれて急逝した。この作品は、手の表情に女性らしさを表現したもので、栖鳳は、着物の配色や鏡台の配置、人物の姿勢など、「用意周到の痕見えて間然すべき処がない」と評している。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
クレーとは?【 作家名 】 1879年スイスに生まれる。1940年没する。ドイツ、ミュンヘンの美術アカデミーに学び、当時の前衛的なグループ「青騎士」に参加、カンディンスキー等と交流する。初期は神経質でありながらダイナミックな線描で知られ、後に豊かな色彩を用いた作風へと変遷した。キュビスムやシュルレアリスム、抽象などの様々な要素を消化し、線と色彩の効果が十分に発揮された高い精神性を持つ独自の画風を確立。ドイツの近代デザインの学校であるバウハウスで教鞭を執り、理論家として多くの作家に影響を与えるなど、今世紀の巨匠の一人に数えられる。スイスのベルンにクレー財団が設立されている。 |
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